有馬温泉という名前は幼い頃から祖父や父母から聞いていた。どうも大阪商人の父も大阪職人の祖父も仕事の終わりの休養地が有馬温泉だったのだろう。一度連れて行ってくれというと、父は激しい顔つきでいったものだ。「子供の行くところやない」と。すると、母は今にして思えば皮肉な笑みを浮かべて、そうそうと合槌をうった。きっと芸妓衆のことを考えてのことだろう。そこで幼いわが頭の中には戦前の有馬温泉のイメージは男性の華やかな遊び場として刻み込まれた。 そして、住居は次第に有馬温泉に近づくことになる。30年ほど前からは家族で行く温泉というと有馬となった。単に近湯というだけでなく、車で一時間足らずの別天地に入って行けるからである。自宅と六甲山の中間にセカンドハウスを建てたのも温泉との距離を短縮させるためだった。 そして、6年前、有馬温泉は仕事の上で大きな存在として浮かび上がってきた。それは江戸の奇人といわれる平賀源内を書こうと考え、資料を調べていると、源内は高松の藩を後にして、瀬戸内海を渡って、友人と共に有馬温泉にかなり長い間逗留していることがわかったからである。 「これはいける」という直感がそれまでの書き手としての体験からあった。出版社も決定し、有馬温泉までを後150枚の段階で書きながら有馬温泉に取材に入ったのだが、源内の有馬温泉での足跡が掴めない。全くないといってもいい。書もなければ絵も見つからない。こんなことはそれまでにはなかっただけに慌てた。が、ない。源内は有馬温泉に呑み込まれたように思えた。 そして阪神大震災に温泉もわが家も見舞われた。改めて、有馬温泉と平賀源内の関係に着手しようとは思っているがはたしていつになるのかわからない。